最近島唄をよく聞いてます。 そこで私が余り勉強してない沖縄の歴史についてまとめました。
(1)琉球から沖縄へ〜琉球処分
東南アジアとの貿易で栄えた琉球王国は、1609年、薩摩の島津藩による侵攻を受けます。琉球は「異国」として扱われたため、琉球王国の対面は残されるだけでなく、清を宗主国としての交易も認められていました。(その利益を島津が収奪した)
明治政府は琉球を日本領土に組み込もうと考えましたが、ただ日本領土と宣言するには琉球や清の抵抗が予測されました。そこでまずは、琉球藩を設置し、廃藩置県を利用して日本の県として組み込もうとしました。
そこで利用したのが、先述の台湾人による琉球宮古の漁船乗組員虐殺事件でした。明治政府は清に謝罪を要求しましたが、清は「台湾は清の目の届かない遠方地」としてこれを無視しました。ここぞとばかりに日本軍は台湾に出兵、あわてた清は台湾からの撤兵を要求しますが、このとき「台湾出兵は日本国民が殺害されたことへの正当な報復であった」ことと認めてしまいました。つまり、清が琉球の民を日本国民と認めてしまったのです。
これをたてに明治政府は琉球王国を廃止し、沖縄県を設置して沖縄の施政権を奪い取りました。
この琉球藩を設置から、琉球国を廃止、沖縄県として日本領土としたことを「琉球処分」と呼びます。
琉球処分後、抗日運動が起こりましたが、日清戦争で清が敗北した頃には沈静化しました。
(2)終戦まで
1942年(昭和17年)、ミッドウェー海戦で壊滅的打撃を受けた日本軍は沖縄に飛行場を作り始めます。これは沖縄が他国からの防波堤となることを意味していました。
1944年(昭和19年)、日本政府は沖縄から本土へ10万人の疎開計画を緊急決定しましたが知らない土地へ行く不安と既に沖縄近海に米軍の潜水艦が出没していたことから疎開はうまく進みませんでした。同年8月22日、疎開者を含む1700人の乗った対馬丸が米国潜水艦の攻撃を受けて沈没。1500名が亡くなりました。
同年10月米軍機B29による激しい空襲(10・10空襲)は早朝から午後4時まで行われ那覇市の90%を焼失、琉球王朝時代の貴重な文化遺産を数多く失いました。
1945年(昭和20年)3月26日、米軍が遂に沖縄に上陸、日本国内で唯一の地上戦となる沖縄戦が始まります。パニックになる住民の中、軍からの直接・間接の命令として「自決せよ。」が通達され食料も行き場もない状況で多くの人が家族や親類ぐるみでお互いに刺し合って絶命しました。
沖縄戦については先に紹介した新城俊昭 著「高等学校 琉球・沖縄史」東洋企画等をご覧ください。
広島と長崎に原爆を落とされた後の同年8月15日、日本国はポツダム宣言を受諾し戦争が終了しました。
(3)米軍占領から返還まで
米軍は沖縄に上陸した時点で、沖縄を日本本土から切り離して考えていました。
沖縄は米国の管轄下におかれ、沖縄戦で捕虜にされた人々は終戦の後1945年10月頃から帰宅を許されました。しかし生活は苦しく、ひどい栄養失調に迫った人々も多数いました。
その後も返還交渉の中で米軍基地が存続されることを知った住民との激しいやり取りは続きました。1971年6月17日、「基地をなくしたい」という住民の理解が得られないまま沖縄返還協定は調印されました。
施政権返還後(1972年から現在)
1972年(昭和47年)5月15日、遂に沖縄住民の悲願であった「祖国復帰」の日がきました。
本土復帰後の最初の知事選では「国の政策と直結した経済優先」を唱えるよりも「基地撤去による平和な島作り」を目指した候補が選ばれる結果となりました。
本土との経済格差を解消するために国体や海洋博等のイベントも盛んになりました。
昔から「海の彼方のニライ・カナイの世界には豊かな実りと幸せをもたらしてくれる理想がある。」と言う信仰があったためはじめは大歓迎だった住民も、本土からの土地買い占め、物価高、そして何よりも自然環境の破壊が進んだことに大きなショックを隠せませんでした。
ニライ・カナイとは?
ニライ・カナイとは、一般的には海の彼方の理想郷を意味しており、方角は地域や時代によって大きく異なっています。
ニライ・カナイは時には幸せばかりではなく飢饉や病気など凶事を運んでくることもあります。また、神や祖先は時を定めてニライ(神の世界・あの世)から訪れると考えられています。お盆には祖先が海の彼方から帰ってくると考える地域もあるようですが、これを裏付けるように沖縄ではウタキ(礼拝所)が岬や海辺に設けられていることも多いようです。
追記:簡単に纏めましたが、それ以上に色々な困難があったと思いますが、本土とは相当違う歴史であることは、認識しなければならないと思ってます。
島唄:島唄

